2010-12-26

合気道

自宅の近くにある道場に、嫁さんは去年から通い始めていた。

一度だけ体験的に、嫁さんが通う道場に行ってみたことがあったのだけれど、毎週決まった稽古の時間に予定を合わせることができずに、そのまま一年以上合気道のことは忘れていた。

で今年になり、やっぱり「継続的になにか運動しなくてはいかんな」となり、時間帯的に比較的都合がよい、同じ連盟の別の道場に通うことにした。

同じ連盟とはいえ、道場が違うと当然師範も違う。

有段者になってくると、市内数カ所の道場を渡り歩く(つまり様々な師範について習う)人も多いのだが、まだ初心者のうちはひとりの師範についていなさい、と教えられて数ヶ月それを守っていた。

ところで、嫁さんが習っている師範は、土曜日の昼間に「子供の高学年クラス」というのを受け持っており、まだ初心者の嫁さんは子供たちに混じってそこで一汗かき、そのまま同じ師範が教えている夜の「大人クラス」に連チャンで通う。

話をきくと昼間の高学年クラスの方には、他にも初心者の大人が居り、正式な稽古じゃないから気軽に習える、という。

もともと去年、嫁さんが習っている師範に一度だけ体験稽古を受けた際に「あなたぜひ習いにきなさい」と誘われて合気道を始めたということもあり、ぼくの師範に相談したら昼間の方ならいいよ、と許可をもらえたので、今月になってから二度ほど通ってみた。


師範が違う、ということは、稽古のメニューが微妙に、違う。

具体的には、技のコンビネーションの組み方が違うのだが、普段慣れている技の掛け方がちょっと変わっただけで、初心者のぼくには相当難しく感じてしまう。

しかしながら、よくよく考えてみると教わっている技の基本の動きは同じだ。

この僕の戸惑いは、よくいう「森と木の関係」のアナロジーである。

相手の正面打ち、または突きを手刀で受けたあと、右と左どっち側にどう払うのか、などというのは合気全体からすれば些細な違いであり、それはつまり「木」である。

最終的に相手をどのように投げ、関節をどう極めるのか、という「道筋」=「森」はまぁ、ほぼ結果的に同じなのである。


なんでもそうだと思うが、初心者にとっては「木」が大事な時が多い。

やり始めのうちは、できるだけ「木」というものを正しく理解すること。

やがて、いろんな木の存在がわかり、にわかに全体像を悟ったときに「森」というものがやっと理解できる、というのが「何かを体得する」ときの常套手段だろう。


合気道を習い始めてこれが面白くなり、色々調べてみた。

合気道は「武道の禅」と呼ばれるそうだ。

おそらく、『「動き」と「知覚・認識」の相互リンク』があるからこそなのかもしれない。

絶対的なものと相対的なものを「理解する」という工程、あるいは「理解しよう」とする意識の持ち方は、音楽をする上でもけっこう当てはまるように思う。


まだまだ奥が深そうで、一朝一夕に「理解した」つもりにもなれないけれど、とにかくやってて面白い。

0 件のコメント: