「悶」という漢字は面白い。
心を門が囲む。
門に守られた心、か。
だが、いまのおれにとって「門」という一字はお尻の穴、肛門のことにしか思えない。
そんな気分で「門」をじっと見つめていると、字づら的に、この漢字は肛門を表す亀甲文字が進化したかのように思えてくるから、不思議だ。
昨日は、久しぶりに門を叩いた肛門科の先生に、門の奥にある心を弄ばれてしまった。
「苦悶」という言葉にはちょっとヘビーな印象がある。
しかし、「悶える」と書くとなぜだか淫靡に見えてくるのは、宇能鴻一郎を中学生の頃から愛読していた俺だけだろうか。
門の奥の心を、ゴム手袋をはめた先生に弄ばれた際、おれは「苦悶」と(淫靡な)「悶え」のちょうど間くらいの声を、臆面もなく洩らしてしまった。
恥ずかしい。
とても、恥ずかしい。
これしきのことでこれほどまで陵辱されてしまった気分になるということは、おれは同性愛者にはなれないということか。
とりあえず、昨日の診察では、まだ切らないでおこう、となった。
経験上判っているのだが、切ったら切ったでそりゃもう死ぬほど痛い。
だがその後には平常で安静な日々が待っている。
そしていま、いっそのこと、あそこで切ってもらえば良かった、と後悔している。
椅子に、座れない。
愁悶深し。
あそうそう、これ食事中の方は読まないでくださいね。
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