2009-02-25

みがひきしまる

人に褒められたりすると、その瞬間はとても嬉しくて満たされる思いを味わうのだけれど、時が経つと、褒められたことの真の意味がじわじわと理解できてきて「もっとちゃんとやろう」とか思っている自分に気がつく。

または、素っ晴らしいものを観てしまったとき、単純にそこに感動をおぼえる反面、自分の未熟さというかヒヨワさをも同時に思い知らされて「もっと頑張られば」と思っている自分もまた居たりする。

その二つがここ最近、ほぼ同時に近い短いスパンで襲ってきてて、なんだか恐れ多い気分でいる毎日。

恐縮とは、恐れて縮こまる様子のことだと思うのだけれど、そこまでじゃないけどやっぱり多少は縮こまっているみたいだ。

この状態になるといつも思い出すのが、「ねじ式・紅い花」(小学館刊)の巻末で、糸井重里さんが書かれたあとがきの一文。

「いまあらためてつげ義春を読むなどということは、もしかすると、幸福のためにはしてはならぬことなのかもしれない。
自分を「いっぱしのなにか」だと思っている若者や、仲間うちではダントツの才能を誇っている誰かが、つげ義春一発でバタバタ倒れていくようすが目に見えるようである。
ちょうどいい幸福、軽い名誉、弱々しい敬意やほどほどの嫉妬の視線などを、みんな犬にでもくれてやって、「とぼとぼ」とひとりで歩きはじめてくれることを、昔の若者である私は願っているのである」

ああ、ほんとに、そういう感じ。いま。

とぼとぼ。

0 件のコメント: