自宅の近くにある道場に、嫁さんは去年から通い始めていた。
一度だけ体験的に、嫁さんが通う道場に行ってみたことがあったのだけれど、毎週決まった稽古の時間に予定を合わせることができずに、そのまま一年以上合気道のことは忘れていた。
で今年になり、やっぱり「継続的になにか運動しなくてはいかんな」となり、時間帯的に比較的都合がよい、同じ連盟の別の道場に通うことにした。
同じ連盟とはいえ、道場が違うと当然師範も違う。
有段者になってくると、市内数カ所の道場を渡り歩く(つまり様々な師範について習う)人も多いのだが、まだ初心者のうちはひとりの師範についていなさい、と教えられて数ヶ月それを守っていた。
ところで、嫁さんが習っている師範は、土曜日の昼間に「子供の高学年クラス」というのを受け持っており、まだ初心者の嫁さんは子供たちに混じってそこで一汗かき、そのまま同じ師範が教えている夜の「大人クラス」に連チャンで通う。
話をきくと昼間の高学年クラスの方には、他にも初心者の大人が居り、正式な稽古じゃないから気軽に習える、という。
もともと去年、嫁さんが習っている師範に一度だけ体験稽古を受けた際に「あなたぜひ習いにきなさい」と誘われて合気道を始めたということもあり、ぼくの師範に相談したら昼間の方ならいいよ、と許可をもらえたので、今月になってから二度ほど通ってみた。
師範が違う、ということは、稽古のメニューが微妙に、違う。
具体的には、技のコンビネーションの組み方が違うのだが、普段慣れている技の掛け方がちょっと変わっただけで、初心者のぼくには相当難しく感じてしまう。
しかしながら、よくよく考えてみると教わっている技の基本の動きは同じだ。
この僕の戸惑いは、よくいう「森と木の関係」のアナロジーである。
相手の正面打ち、または突きを手刀で受けたあと、右と左どっち側にどう払うのか、などというのは合気全体からすれば些細な違いであり、それはつまり「木」である。
最終的に相手をどのように投げ、関節をどう極めるのか、という「道筋」=「森」はまぁ、ほぼ結果的に同じなのである。
なんでもそうだと思うが、初心者にとっては「木」が大事な時が多い。
やり始めのうちは、できるだけ「木」というものを正しく理解すること。
やがて、いろんな木の存在がわかり、にわかに全体像を悟ったときに「森」というものがやっと理解できる、というのが「何かを体得する」ときの常套手段だろう。
合気道を習い始めてこれが面白くなり、色々調べてみた。
合気道は「武道の禅」と呼ばれるそうだ。
おそらく、『「動き」と「知覚・認識」の相互リンク』があるからこそなのかもしれない。
絶対的なものと相対的なものを「理解する」という工程、あるいは「理解しよう」とする意識の持ち方は、音楽をする上でもけっこう当てはまるように思う。
まだまだ奥が深そうで、一朝一夕に「理解した」つもりにもなれないけれど、とにかくやってて面白い。
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