2016-01-07

武蔵家

夜、三鷹・東八道路沿いにある武蔵家に初めて行ってみた。

横浜家系特有のこってり味ではあるが、ここのは比較的軽めで最後まで飽きずに食べられた。

豆板醤を乗せて食べるご飯が美味い。

2016-01-06

30年

30年前、まだ高校生だったころの俺を撮影した写真をFacebookでみかけた。

撮影したのは、いまは仙台に住むふたつ年上の、同郷の先輩。

懐かしくなって写真の投稿にコメントを入れたら、先輩はもちろん俺を覚えていた。

先輩曰く、最後に会ったのは俺が高校を出てすぐの頃の、郷里の楽器屋だったそうだ。

その時、俺は店のギターを借りてなんと DEAD END を弾いていたんだとか。

この2、3日、急に DEAD END を聞きまくっていたのは、そういうことだったか。

2016-01-05

行き止まり

とあるサイトを見ていたら、2013年に DEAD END のトリビュートアルバムというのが出ていたことを知り、視聴してみたらとても良いので購入。

DEAD END 大好きな人たちがそれぞれ愛情たっぷりにあんな曲やこんな曲をカバーしている。

30年近く昔、楽器屋さんでバイトしていた頃によくコピーしていたときの思い出が蘇り、夜、久しぶりにエレクトリックギターを引っ張り出してきてあんな曲やこんな曲を一緒になって弾き倒す。

2016-01-04

ハンバーグ

夜、久しぶりに嫁さんにハンバーグを作ってもらう。

ハンバーグとカレーライスだけは、やはり家で食べる方がぜったいに美味しい。

ビッグボーイの大俵ハンバーグやびっくりドンキーのカレーハンバーグやCoCo壱番屋のメンチカレー5辛がときどき無性に食べたくなるが、それでもやっぱり家で作って家で食べる方が美味しい。

2016-01-03

バスマティ初め

昨日、ビリヤニ研究家の翔太郎くんからバスマティ米の炊き方についてあれこれとコツを教わったので、さっそく試してみる。

今回はビリヤニではなく、白く炊くだけなので翔太郎くんの手順からちょっと変えたが、教えてもらった「油を足す」という最大のポイントはきちんとおさえた。

やはり、これまで我が家で作るバスマティ米のできがいまひとつだった理由は「油を使っていなかった」からだったようで、もっとも完成度の高い仕上がりとなった。

これで献立を充実させることができる。

2016-01-02

八潮

調布飲み仲間の浦畠さん、坂下くん、それに嫁さんを車に乗せ、昼過ぎに調布を出発。

高速道路の渋滞に阻まれつつ、予定よりも一時間遅れて八潮の「カラチの空」へ。

野田市在住の佐々木翔太郎くんと現地で待ち合わせ、総勢5名でビリヤニやカレー、マトン料理、ナンやロティをこれでもかと注文する。

激ウマの料理に舌鼓を打ち、食後にチャイをすすり余韻に耽る。

夢のような2時間を過ごし、調布に戻る。

美味しいパキスタン料理を食べるためだけに半日を費すプチドライブであった。

2016-01-01

トゥバラーマ

義母方のご両親は、八重山の民謡「トゥバラーマ」の名手だった、という話だけは以前からきかされていたのだが、先日、嫁さんが義母の法事のために帰省した折、親類が持っていた演奏の模様を録音したカセットテープをお借りすることができ、ダビング業者に依頼してCDに焼いてもらったものが、年末の慌ただしい中に届いた。

年を無事に越すことができ、ようやく落ち着いた気分で聞いてみて、そのあまりのレベルの高さに衝撃を受けた。

沖縄三味線をつま弾きながら歌う祖父、三線とのユニゾンやときおりオブリガードやゴーストノートを、琉球琴で入れる祖母。

通事安京(とうじ・あんきょう)さんのようないわゆる「プロ」の方のCDは、生前の義父から勧められて聞いたことはあったが、そんなプロの演奏家とは違い「表にでてこない」市井の演奏家の音を、初めて聞いた。

こういった音源は、友人や親類などの近しい間柄に、録音の手間暇をかけることを厭わない協力者が居でもしないかぎり、たぶん存在しないだろう。

いま沖縄に存命している親類の中に祖父祖母から指南を受けた者はおらず、特に弟子を持つこともなかった祖父祖母の芸を、どんな形であれ「生で」聞くことはもう叶わない。


盆や正月になると石垣島からわざわざ本島の嫁さんの実家にまで出向き、夜な夜な義父や自分の娘(ようするに義母)らの前で演奏を聴かせてくれていた、という話にふれると、その演奏の凄さを聞いてしまったいまとなっては、沖縄の民謡がいかにひとびとの生活に根付いていたかを、つい羨望の混じった思いで想像してしまう。

4半世紀ほど前、秋元と本土の民謡を聴きながら、いまの日本人としての自分たちにとっての音楽のあり方というものをあれこれと研究していた頃、日本のいわゆる「民謡」が、もうとうに死んでしまったことを個人的に憂い、その想いが当時の音楽を作るモチベーションのひとつだったこともあった。

ペルシア音楽、というものを勉強するようになると、同じ「バラッド」でも、なぜ日本のではなくイランのものを自分は選択しているのだろう、という自問自答はしぜんと時折、沸き起こる。

もちろん、上に書いたようなことは理由ではないが、これからさらにペルシア音楽と過ごす機会が増えるであろうことを踏まえ、なんとなく、今年一年の探求テーマはそのあたりにあるような気がした。