2021-01-01

深大寺

早朝、猫たちに起こされて朝ごはんを与える。あまり寝ていないので、二度寝しようと布団に戻ったが結局眠れず、起き上がって小づゆの仕込みを始める。

朝、出来立ての小づゆで、正月恒例の朝餉。

昼、西友で買ってきた「みなさまのお墨付き」の塩ラーメンで昼餉。食後、布団に潜り込んで昼寝。

夕方、嫁さんと深大寺まで散歩。例年に比べて参拝客は明らかに少ないが、夕方の時間でもそれなりに賑わっていた。一軒、深大寺蕎麦のお店がこの年末で閉店していた。ついに深大寺蕎麦にもコロナの影響が及んだか。

帰り、深大寺でお参りをし、武蔵野市場に最近オープンしたまぐろ専門店に立ち寄り、刺身セットを買って帰宅。

夜、刺身、昨年暮れに鳥山さんからいただいた奈良漬などを肴に、初晩酌。

「想像」と「妄想」の違いについて、先日見たドキュメンタリーにそのヒントがあった。米国で、いまだに選挙に不正があったと主張し続けているトランプ支持者は、この期に及んでもマスクをつけようとしない。コロナなんて風邪みたいなものだ、とか、俺はマスクが嫌いだ、というトランプの言説をそのまま鵜呑みにし、言動を模倣する。彼ら/彼女らが抱えているのは明らかに「妄想」である。コロナに罹り医療機関に運ばれたあとの、医療従事者にのしかかる重圧、医療崩壊の危機に対する想像力というものを全くもって持ち合わせていない。この例を見て判るのは、妄想に縛られている者は「想像」することができないということだ。妄想と想像は相容れない、と結論づけてもよいかもしれない。

表現や創作活動には、妄想力が必要である。妄想の領域には、他者の存在は入り込まない。独善的であるがゆえに妄想という行為が成立するのである。しかし、トランプやそのフォロワー達のような、恣意的利益を達成しようとする妄想は、よろしくない。トランプが吐き出している妄想は、ポピュリズム・ドリブンである。表現は、競い合うものではないし、己の優位性を訴える道具でもない。翻れば、表現ってなんのためにあるの?ということを、もう一度きちんと考えないといけないのではないか、と思う。


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