2020-11-03

鶴さん、六本木

朝、起きてメールを開いたら、平島聡さんから「鶴さん、やはり深夜に旅立ってしまった」との連絡あり。。。鶴さん。。

2017年8月、太鼓を持ってふらっと西早稲田 Jet Robot に向かった。それより遡ること2006年頃、Jet Robot がまだ原宿にあった頃、縁あって鶴さん主宰のインプロセッションに参加しはじめて、しばらくは毎月開催される同イベントに通っていたのだけれど、ほどなく、足が遠のいてしまった。それから何年も経って西早稲田に行った時、鶴さんに「おまえ、みたことあるけど誰だっけ?」と訊かれた。あ、シューヘイです。原宿で昔お世話になってました。というと、「おー、なんだおまえ、急にどうした?」というので、最近はずっと太鼓やっていて、Jet Poet に混ぜてもらえないかなーと思って。というと、ちょうどそれまで太鼓でレギュラー参加していたノブナガケンさんが辞めるタイミングだったこともあり、「おまえ来月からずっと来いよ」と誘ってもらったのだった。。

その、数年ぶりに参加した詩の朗読と即興演奏のセッション。俺が太鼓を叩いている最中に鶴さんから圧のあるダメが、静かに入った。客席の、一番奥で見ていた鶴さんの口元から、「プス、プス、プス、、、」と零れるようなシグナルが鳴った。出た。。。これがアングラで鍛えられた人間なりの、ダメ出し。音と音の隙間に、微かに刻まれる「プス、プス、プス、、、」は、耳に神経を集中させている奏者には歴とした異物として際立つ音。終演後、鶴さんに「俺があそこでダメだしたの、なんでかわかるか?」と訊かれ、「俺が too much だったんだよね」と答えると、鶴さんは満足そうに、でも、残念そうに、「民族音楽系の楽器やってる連中は、だいたいみんな『やり過ぎる』んだよ。おれは、それが言いたかった」と言った。俺は、それからはさらに「気配」を演ろうと心に決めたんだった。

2018年になり、鶴さんが踊る現場でも何度か誘ってもらった。おれは、plan-B のお手伝いをしていた頃、泯さんから「舞踏(BUTOH)とか言ってるやつらなんてダメだ」とかなんとか、洗脳をずっと受けていたこともあって(苦笑)、しかも泯さんとは超犬猿の中だという麿さんのお弟子さんである鶴さんと、まさに舞踏のライブをやるなんて!と、それだけでもう、なんだかかなり、嬉しかったのだ。

俺が、裏方として芝居の座組に参加している期間中、いちどだけ Jet Poet をお休みしたことがあった。ところが、稽古を終えて JR目白から山手線に乗ったら、次の高田馬場で同じ車両に鶴さんが乗ってきたのにはお互いに大笑いした。鶴さん、「おまえ、頑張ってんなー」とかなんとか、車内のベンチシートでめっちゃ酒くさい息を吹きかけながら、げらげら笑いながら絡んできた。あの時は、嬉しかったけど、正直ちょっと迷惑だったよ。。苦笑。。。

あるとき、鶴さんから、「おまえ、なんでまた Jet に戻ることにしたんだ?」と訊かれたことがあった。「なんで?」。それ、ものすごく長い話でもあるし、簡単な話でもある。でも、鶴さんなら、この一言でわかってくれるかな、と思って、「plan-B 時代に、泯さんにいじめられたのが悔しかったから」と答えた。鶴さん、苦笑しながら、俺が言いたかったこと、たぶん分かってくれたと思う。「おれたち、ああいう怖いひとたちに育ててもらって、いまこうして遊んでられるんだよな」とかなんとか、そんな風のことを鶴さんは返してくれた、と記憶している。

今年の4月28日、急に鶴さんから電話をもらった。コロナで Jet Poet を中断している最中のこと。これからどうしたらいいんだろう、どうすべきなんだろう、とか、でも、いつか必ず、完全ではないにせよ、限りなく元に近い状態にはなると思うよ、とか、そんなことを話したと思う。でも、そんなことより、鶴さんから電話をもらった、ってことが嬉しかった。ほんとうに。なぜなら、鶴さんも俺もお互いにシャイで、サシで電話するなんてちょっと考えられないことだったから。でも、鶴さんなりの愛情があって、おれのことを気にしてくれて、話なんかどうでもよくて、ただ電話をしてくれたんだと思う。

そう、鶴山欣也というひとは、とてつもなくシャイで、とてつもなく優しくて、とてつもなく悪戯っこで、とてつもなく表現に対して厳しくて、なにより、とてもつもなく周囲の人間に愛されていたひとだった。「だった」なんて、過去形でなんて、書きたくないよ、鶴さん。また Jet Poet で遊びたいよ。寂しい。ほんとに、寂しい。

午後、電車で京王線〜井の頭線と乗り継ぎ、神泉駅で降りて246〜六本木通りを歩いてストライプハウスギャラリーへ。青城さんの個展「あのころみえな かったそれはいまもみることができない」に伺う。青城さんの造形は、舞踏家の身体にインスピレーションを受けて造られたものであった。作品のひとつひとつに目を移すたび、つい、鶴さんのことを思ってしまう。あとから来場された初老のお客さんが青城さんと話し始めたので、テラスに出てタバコを吸っていたら初老の客人もタバコを取り出しながらやってきた。お互いに自己紹介をしたら、かの方はジャズボーカリストをされている方だった。そこから一気に話が盛り上がり、日本でのジャズ黎明期の話題から学生運動や自民党の話になり、果ては六本木〜麻布界隈の風水や地脈の話までぶっとび、二時間くらい喋り続けていた。笑いながら話を聞いているうち、気分はかなり、ほぐれた。ありがたい。助かる。

夕方、帰宅。リビングは、嫁さんが嵐のオンラインコンサートを見るためロックアウトされている。俺は作業部屋にこもり、鶴さんのことをあれこれ思い出した。鶴さんが湘南台でやっていたホルモン焼店は、けっきょく行く前になくなってしまった。鶴さんを誘って入魂のライブをやろうと画策していたのも、消えてなくなってしまった。同じひとを相手に、「やらなかった」ことで後悔する、ってことを2つも抱えてしまうなんて、ぜったいおかしい。おれは、なにかを間違えてしまっている。でも、反省しても、何も始まらない。

俺は長男だけども、もし俺に兄貴がいたとしたら、鶴さんだったのかな。



夜、缶チューハイを飲みながら、ネットに流れ始めた鶴さんの訃報を追いかける。そんなこと、何の意味もないのは分かっているのだけれど。


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